ROBOT ROYAL36
人の手を介さなくても勝手に動いてくれる道具。文明が発生したころから、人はそういったものを創造し作り続けて来た。古代ギリシアでは自動ドアや蒸気機関の先駆けのようなものまであったという。エジプトにはそういった知識を集めたアレクサンドリア図書館があり、機械式コンピュータの祖先といえる天台解析用の装置があった。残念ながらアレクサンドリア図書館は戦災で焼けてしまい、考古学者の間では消失していなければ、人類の科学技術は200年進んでいたとまで言われている。ともあれ、人類はそのときの持てる限りの知恵で様々な物を自動化してきた。今回紹介する写真機械はドイツ、オットーベルニング社製のロボットロイヤル36である。シャッターを押し、離すと自動的にフィルム巻上げとシャッターセットがされるカメラである。もともとの起こりは、化学実験や産業用監視カメラ等に使用するために開発された機械であった。開発された1930年代はシャッターを押した後、自動的にフィルム巻上げとシャッターセットをする機械は一部存在していたが、準備が煩雑であったり、故障しやすかった。その中で、比較的少ない部品点数と操作の簡便さでロボットは広く使われるようになった。そして避けて通れない話が戦争である。当時はナチスドイツが周辺国を脅かし始めた頃であり、戦況や演習の記録に使用され始めた。今でも語り草なのが「ゲーリングの眼」である。第一次世界大戦時、ドイツ空軍のエースパイロットであったヘルマン・ゲーリングはナチスドイツの空軍省大臣となっていた。戦況の把握と今後の戦略のために、敵国の軍用機の撃墜数は重要であった。しかしながらプライド高き空軍パイロットは素直な報告はしなかったらしく、ゲーリングはだいぶ困ったらしい。そこでロボットの登場である。機銃のトリガーと連動してシャッターが切れる様に、戦闘機を改造していった。それにより脚色された戦況報告に惑わされず作戦を立てれるようになったとか。さらにロボットは新人パイロットの教育にも使われ、演習時に機銃の狙いが正しかったか確認するために使われたという。なんとも科学的というか論理的な発想であり、こういったところがドイツ人らしいというのだろう。戦後はまた産業用や実験用の撮影機として使われたが、民生用としてもかなり生産された。敗戦国であるドイツを立て直すために外貨獲得のため輸出された。これはドイツ製品すべてに言えることであり、わが日本もそれによって立ち直ったのである。余談であるが、ドイツ製品の雄、エルンストライツ社の写真機ライカカメラは戦前から世界的に人気で、戦争中にドイツ爆撃の作戦を立てたアメリカ空軍の将軍はライツの工場を避けて爆撃するように指示したという。これは戦後処理を見越したアメリカのしたたかなところと見るか、ただの個人的なエゴかは定かでない。
WERRA MATIC
戦後、ドイツはベルリンで東西に分断され、その悲劇はいろいろなモノに影響していった。会社組織も例外ではなくて、当時(現在も)世界最大の光学機器メーカーであるツァイスも西のカールツァイス、東のVEBツァイスイコン、後のVEBペンタコンとなって、その後半世紀にわたり世界の二つの体制に向けて製品を送り続けた。数多くあるツァイス製品の中で変り種として取り上げられることが多いのが、ウェラシリーズである。見た目、カメラによくある操作部分が見当たらず、あるのはファインダーののぞき穴とシャッターボタンのみときた。レンズキャップを外すとレンズ鏡胴には一般的な絞り、シャッタースピード、距離の各表示がある。実はこのレンズキャップもよく考えられていて、反対に付けるとレンズフードになる。巻き戻しクランクは底蓋に移動しているとして、巻き上げノブが見えない。実はレンズ基部の一見グリップのように見えるリングが巻き上げノブなのだ。かなり野心的なデザインに感じるが、分解してみるとフィルム巻上げとシャッターチャージのリンクが一般的なレンズシャッターカメラよりも遥かにシンプルに出来ているのだ。内部のメカニズムと巻き上げノブの連結は一本のピンだけで行っている。すなわち、共産圏の工業製品に良くある工数削減の改善(改悪!)を優れたデザイニングでカバーした秀逸な一品といえよう。シリーズは全部で4種類あり、目測の透視ファインダータイプのⅠ型、露出計内臓のⅡ型、距離計連動とレンズ交換式のⅢ型、Ⅲ型に露出計も入れたⅣ型、である。その他、数字で分かれた形式以外に’マット’や’マチック’という名称が付けられたタイプ(Ⅱ型とⅣ型の改良型)が有る。このウェラシリーズは、東ドイツの経済の混乱により誕生したという。50年代の半ばに起こった大規模なストライキで政府に対しての改善要求の中に民生品の種類と物量の拡充があり、その中に手軽に使えるコンパクトカメラの生産があった。一年ほどの設計と試作の後、’56年頃から生産を始めたようだ。当初はアマチュア向けカメラとして生産されていたが、好評だったようで最終的にはかなりハイスペックな機械になった。ハイスペックといえば、当初シャッターは当時の最高級品だったデッケル社のシンクロコンパーを西側から取り寄せて生産していたが、序所に政府の統制が厳しくなり物資の流通が途絶えるようになると、自社でシャッターを開発するようになった。プレストールという名の入ったシャッターがそれでロータリーシャッターと呼ばれる、シャッター羽根が回転する形式の物だ。通常は往復運動のシャッター羽根の構造を、左右対称の羽根を回転させる構造にすることにより、最高速度を1/750にまで上げることが出来た。多少のスペックアップであるが、あちら側の言い回しで言えば「西側に対する技術的勝利である」。そんな「夢のカメラ」は後世のカメラ修理人たちには不評で、組み立て時の効率最優先の為か、部品がリベット留めの為、修理が困難と言う事だ。そんな融通の利かなさも共産圏の風味と感じてしまう。
執筆者 ブラック堂 友の会 クラシックカメラ部門 鈴木君欣